日本のもつ「和の心」を見事に表現したアメリカ在住のイサム・ノグチ

アメリカの生活が非常に長いと言うのか、ほとんど日本では生活らしい生活はしていなかったイサム・ノグチですが、日本の心は普通の日本人以上に捉えていたのではないでしょか。

日本のもつ「和の心」や「純粋さ」がこの作品に見事に表現されていますね。岐阜県の提灯をモチーフとして作られ続けた「あかり(Akari)」シリーズですが、いつ見ても新鮮に見えるから不思議ですね。



イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)はアメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人である。

父は愛知県生まれの日本の詩人で慶應義塾大学教授の野口米次郎、母はアメリカの作家で教師のレオニ・ギルモア(Leonie Gilmour)。

1906年、先に帰国した父を追って母と日本へ移住したが、父米次郎は既に別の女性と結婚しており、母と二人で2歳から13歳までを東京で暮らした。小学生時代は横浜のフランス・カトリック系の私立小学校に通う。10歳ごろに木工職人宅に通い詰める。

1918年、母の意思で単身で米国へ送られ、インディアナ州ローリング・プレーリー近郊の公立中学校に入学。両親の知人宅へ寄宿。その後公立高校を卒業。芸術家を切望したため中学校長の斡旋でスタンフォード在住の彫刻家、ガッツォン・ボーグラムに弟子入りが叶う。しかし、敬愛する師から彫刻の適性を認めてはもらえず、挫折感から一時は芸術を諦める。

1923年ニューヨークへ移り、コロンビア大学医学部に入学し、日本より帰米してきた母と暮らすようになる。医学部に在籍しつつレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通いはじめる。入学してすぐに初の個展を開催。ナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品する。美術学校の校長、オノリオ・ルオットロに彫刻に専念することを勧められる。

1925年、ニューヨークで活躍していた日本人の舞踏家伊藤道郎のダンス・パフォーマンスに仮面を制作。初めて演劇関連のデザインをする。

1927年、グッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学。半年間、オーギュスト・ロダンの弟子である彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事しアシスタントをつとめ、夜間の美術学校に通う。

1928年に奨学金の延長が認められずニューヨークに戻り、アトリエを構える。翌年、個展を開く。1930年から1931年にかけてパリを経由し日本へ旅立つ。

1935年、在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出品。

1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際に自らアリゾナ州の「日系人強制収容所」に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂がたち、日本人社会から冷遇された為、自ら収容所からの出所を希望するも今度は日本人であるとして出所はできなかった。彼は後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。

1947年、ジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなどインテリアデザインの作品に手を染める。

1950年来日。三越で個展を開く。丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。

1951年、リーダーズダイジェスト東京支社の庭園の仕事の依頼を受け来日。当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり(Akari)」シリーズのデザインを開始。同年、山口淑子(李香蘭)と結婚(1955年に離婚)。鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び素焼きの作品制作に没頭。この頃に魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えた。

同年、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれたが、原爆を落としたアメリカの人間であるとの理由で選考に外れた。しかし彼のデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされている(丹下はこのプロジェクトにノグチの起用を推挙した)。また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインは、ノグチの手によるものである。彼は後年、アメリカ大統領の慰霊碑を設計したこともあるが、こちらは日系であるとの理由で却下された。

1961年、アメリカに戻り、ロング・アイランドシティにアトリエを構える。

1964年、アメリカの企業・IBM本部に2つの庭園を設計する。

1965年、横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移される。

1968年、アメリカ・ホイットニー美術館において大々的な回顧展が開催される。

1969年、シアトル美術館に彫刻作品『黒い太陽』を設置。東京国立近代美術館のために『門』を設置。この年、ユネスコ庭園への作品素材に香川県庵治町・牟礼町(現・高松市)で産出される花崗岩庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり(Akari)」シリーズを発表。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行う。

1970年、大阪万国博覧会の依頼で噴水作品を設計。

1974年、4芸術協会主催によるパーム・ビーチ彫刻競技会にて作品『インテトラ』が2等受賞。同地に設置。同年、東京の最高裁判所に噴水を設計し設置。

1984年、ニューヨークのロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ庭園美術館が一般公開。同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞。

1985年、翌年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出される。

1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲する。

1988年、勲三等瑞宝章を受勲する。札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組む。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた氏の「最大」の作品であったが、その完成を見ることなく同年12月、心不全によりニューヨーク大学病院で死去。84歳。

1989年、遺志を継ぎ、和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、新高松空港に設置された。



×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。